■通勤電車の中での大切なご縁
先代住職である父も公務員をしながら住職をしていましたが、私も私立大学の職員をしながら、住職をしていました。令和4年3月末に大学を退職してようやく43年間の兼職から解放され、専任の住職になりました。住職になったといっても、毎日草取りと掃除ばかりですが(笑)。
兼任していた間は、寺の仕事はできるだけ土曜、日曜に何とか予定をやりくりして対応していました。大学の仕事と寺で大変忙しくはありましたが、いろいろなことに興味を持って行動し、趣味のスキーに行く時間もなんとか作っていました。大晦日に除夜会を行い、正月は年始回り、年始のご挨拶が終わった日の深夜に長野のスキー場に飛んで行って、1日滑ってその日の夜、家に帰ってきて、翌日からまた大学に出勤というようなハードな年始を毎年過ごしていました。昔からの仲間たちと、今も趣味のスキーを続けられていますので、お陰様で心身ともに健康でいられます。寺に生まれていなかったら、違う世界でアクティブな人生を歩んでいたかもしれませんね。
何度か僧侶とは別の職業に就く選択肢を模索したこともありましたが、父が元気なうちに寺のことを吸収しておかなければ…、と一念発起して住職を継ぐ決断をしました。その後住職を継職してから早20年以上になります。
大学への通勤は、寺のある大月から大学のある東京・三鷹まで、片道1時間40分ぐらいかかりました。「やってできないことはない」と思って始めた遠距離通勤でしたが、昔は今より通勤電車の本数も少なく、乗り換えもありましたので大変でした。近年は大月から東京駅までの直通電車もできて、電車の本数も増えたので、三鷹まで快適に行けるようになりました。
電車で過ごす80分は、本も読めますし、いろんなことを考えるにもいい時間です。また、毎日同じ車両に乗ってくる人たちとは、自然に顔見知りになります。「今日はあの人がいないな、最近どうしたのかな」と、気遣ったり心配したりされたりして、電車の中だけの人間関係ができていました。あるときボックス席で、新聞紙が4人のひざの上に広げられました。私は何なのかなと思っていると、何と冬の寒さをしのぐ「簡易こたつ」でした。またある時は、居眠りをしていると隣りの人が起こしてくれたりと、知らぬ間にご縁や触れ合いが生まれていました。
■人々と寺の縁は薄くなっています
こんな風に、以前は会話はなくても、知らない者同士でもいい人間関係があり、もっとそろぞれが思いやる気持ちを伝える機会がたくさんあったような気がします。今は職場で席が隣になってもメールで会話をしたり、逆に人間を区別、差別する意識がどんどん成長しているような気がします。
葬儀も、近親者だけ(少人数)でとり行なう「家族葬」や、宗教色をなくして行なう「無宗教葬(自由葬)」が増え、人と人との縁はだんだん薄くなっています。また、人との関わりあいもどんどん狭くなっているような気がしていて、近い将来、人と人のお付き合いがほとんどない世の中になるかもしれません。人との付き合いがないという人やできない人も増え、寺との関係を持たない方も増えると思います。
この地域も、山間部の限界集落的な場所ですので、若い世代の定着率が悪いです。地元に残って頑張るよりも、都会に職を求め、職場近くに引っ越し、マイホームを買う、先細りのコミュニティになっていくかもしれません。これからについての解決策はまだ見つかっていませんが、突破口のヒントは必ずどこかにあるので、そのために何かができるはずだと考えています。