■お寺を作りたい、という強い思い
大学卒業後、私は、築地本願寺(当時は本願寺築地別院)の職員になりました。14年間勤めました。
築地本願寺には、寺院を統括する役職として、「輪番」というのがあるのですが、ある時、当時の輪番が「個人的なことでも何でもいいから、やりたい!と思うことを言ってこい」と言いました。私と、あともう一人が「新しくお寺を作りたいです」と伝えると、都市開教部を新設してくれました。そして、翌年には、きっちり予算を取ってくれました。
それで土地を探しを始めたところ、マイクロメーターを作っている「ミツトヨ」という会社の社長で仏教伝道協会創始者の沼田惠範さんが、埼玉県ふじみ野の土地を寄贈してくれることになり「ここをお念仏を広める道場にしよう」と決めました。県内で11カ寺目の開教寺院です。今は、35カ寺に増えています。
開教寺院は、本当にゼロから始めるので、何から手をつけたらいいか難しいのですが、築地本願寺がいろいろとバックアップしてくれました。たとえば、「伝道車」と言って、宣伝カーを貸してくれたりしました。私が運転して、坊守がスピーカーで話して、お寺ができたことを宣伝しました。2月に開教して、3月のお彼岸のお中日には25件のお参りがありました。うれしかったですね。
お寺ができたのは、阿弥陀様と親鸞様、沼田惠範さんと築地本願寺があったおかげです。ありがたいことです。
以後、法話会はもちろん、コーラスや子ども会、地域の町会長も30年勤めるなど、地域に根付いた活動をずっと続けてきました。
■坊守との出会い
坊守とは、築地本願寺の職員時代、私が24歳、坊守が18歳の時に出会いました。彼女も職員をしていたのです。
私は、戸塚の善了寺の次男です。9歳の頃から家庭環境がごちゃごちゃとしてきて、高校の頃は、最寄りの駅に着いて家に帰ろうとすると、お腹が痛くなるほどでした。
坊守も家庭でいろいろあったようで「私は何のために生まれたのか。私とは何ぞや」と迷っているようなところがありました。それで、話をしていると、表面的なところだけではなく、全てにおいて深く通じ合うものがあったんです。今も2人で「出会えて良かったね」と話しています。
妻は結婚する前に「あなたのことを理解したいから、私も仏教の勉強をする」と言って、東京仏教学院に通い、得度して教師になりました。つまり、住職になる資格を取ったのです。さらに後に、巡讃(じゅんさん)という、西本願寺の門主とともに内陣でお経をお勤めすることができる資格も取りました。坊守が葬儀も法要もできるから、実家である善了寺と、ここ惠光寺を行ったり来たりした時代も乗り切ることができたのです。坊守なしに、私も惠光寺もありません。
■元気で行こう南無阿弥陀仏
81歳となり、思えばいろいろと、苦しいことがありました。家に帰りたくなかった中学高校生時代、築地本願寺の広い本堂をたった2人で掃除しなければならなかった、職員1年目の頃。自分が作ったお寺と実家のお寺をかけ持ちで支えて、多忙だった9年間。それでも、どこで倒れても、阿弥陀様と親鸞様がいてくださるのだと、いつも信じていました。阿弥陀様は、どんなにどん底に行っても「お前のことは見捨てない」と言ってくださいます。南無阿弥陀仏と称えれば、条件なしに、そのままで、全ての人を救済してくださるのです。何があっても、私も、妻も、誰もが同じ、お浄土に行けるわけです。南無阿弥陀仏というのは、本当にありがたいお念仏です。
「元気で行こう南無阿弥陀仏 力強く前進しよう南無阿弥陀仏」というのを合言葉にして、お念仏を、さらに広めていきます。