鎌倉時代の1214(建保2)年、親鸞聖人が箒川の川端にあった孫八(まごはち)の家に泊まり、帰り際に孫八に阿弥陀如来のご絵像を授けたという。
このことに関して不思議な伝承が残っている。
親鸞聖人と布教の一行が東北地方を巡っていた時のこと。箒川が洪水で渡れなかったので、川端の孫八という人の家に泊まった。彼は子を亡くしたばかりで、親鸞聖人から阿弥陀様のみ教えを聞き、ありがたく思ったという。ご一行が出発し箒川を渡った時、孫八は別れを惜しみ、川越しに「形見をいただけませんか~」と頼んだ。すると親鸞聖人が「何か布切れを持ってまいれ~」とおっしゃるので、孫八は家から布を持ってきて元の場所に立った。親鸞聖人が川の向こうから「南無阿弥陀仏」と称え、筆をとって空に何かを描くと、孫八の布切れに阿弥陀様の鮮やかなご絵像が現れたという。
このご尊像が「川越の阿弥陀様」と呼ばれている。
「川越の阿弥陀様」を安置するために孫八が小さなお堂を建てたのが、正浄寺の起源と言われている。
現住職の西山良智(りょうち)氏は、孫八から数えて21代目の堂守で、中興の開祖である源慶から数えて7代目となる。
孫八が建立したお堂には、本願寺2代目の如信上人、3代覚如上人、8代蓮如上人が参拝している。お堂は孫八の子孫が代々継承していたが、孫八から数えて8代の後、衰微した。室町時代の1469(文明元)年には、釈霊生(れいしょう)が堂宇を建立したが、その後また衰退したと伝えられている。
江戸時代の1798(寛政10)年、佐久山領主の福原内匠(たくみ)資明(すけあき)が、お寺を再興した。
これについても伝承がある。
領主の福原内匠資明の夢枕に阿弥陀様が出てきて「川越の阿弥陀様が売られてしまった」と告げた。家来に調査させ「川越の阿弥陀様」を買い戻して、正浄寺の現在の場所にお寺を建てて安置した。資明はお寺に住職が必要だと考え築地本願寺に依頼したところ、京都西本願寺から西山源慶(げんけい)が派遣された。正浄寺では源慶を中興の開祖としている。
「川越の阿弥陀様」はご本尊の裏の扉の中に安置されている。今ではかなり黒ずんでいて、光に弱いため滅多に開帳されないが、「2023年親鸞聖人御誕生850年立教開宗800年のご法要ではご開帳させていただきたいです。」と住職。
また本堂正面の彫刻は阿久津仁吉の手によるものだ。越後で生まれ、会津で宮大工を学んだ後、佐久山阿久津家の養子となり、佐久山近郷に名作を残した。
階段上の籠彫(かごぼり)の牡丹一対は、3年の月日を要した大作。籠彫とは面の外側だけでなく、内部まで彫刻して立体的に彫り上げる技法のこと。親子抱龍(だきりゅう)や獅子一対も、意匠を凝らした素晴らしい作品だ。