妙善寺は、鎌倉時代の初期、親鸞聖人の弟子・菅原正円(しょうえん)が伊勢国に建てた草庵が始まりと伝わる。正円は鎌倉時代の武将・北条経時の家臣であったが、1248(宝治2)年に、出家して親鸞聖人の弟子になった。
その後、江戸時代初期の1600(慶長5)年に、菅原願正により八丁堀に移転した。しかし、1657(明暦3)年に発生した明暦の大火で本堂、その他を焼失したため、わずか50余年で八丁堀を離れ、築地に移転。築地本願寺の末寺として、寺中に入った。
移転後は、主に江戸の魚河岸で働く仲買関係の方々に布教活動を行い、順調に発展した。
しかし、1923(大正12)年の関東大震災で罹災。1927(昭和2)年、烏山の現在地に再建した。
第28代の寺崎教然(きょうねん)氏は、本願寺の名誉知堂(めいよちどう=勤行を極めたことを認められた人の最高位)として、西本願寺第23代宗主(前々門主)・大谷光照(こうしょう)様前々門様の代務でお勤めをしたこともあるそうだ。その縁で、光照様が妙善寺を訪れることになり、お迎えのために教然氏は、大急ぎで境内に茶室を建てたという。なお、光照様は、昭和天皇の従弟(いとこ)にあたる。
境内には、築地魚河岸の墓地や、落語家7代目古今亭志ん馬、また江戸時代末期の戯作者として知られる為永春水の墓がある。春水は、1832(天保3)年頃から「春色梅暦(しゅんしょくうめごよみ)」「いろは文庫」などを書いて人気を集めた。しかし、風紀是正を目指す天保の改革の時に、江戸市民の色恋を題材とする作風を咎められ、手鎖50日の刑を受ける。これを苦にして深酒し、また、強度の神経症となり、1843(天保14)年、55歳で没した。春水の心酔者だった永井荷風は、妙善寺が築地にあった時代に、春水の墓に参拝に訪れていたという。