圓正寺は、江戸時代初期、元和3(1617)年に、本願寺第12代宗主・准如上人に依り、浄土真宗本願寺派の根本道場として江戸横山町に創建された浅草御坊の子院の1つで、寛永7(1630)年、本山からご本尊と寺号を拝受して、空誓が開基した。
明暦3(1657)年の江戸大火で、浅草御坊は焼失。江戸幕府から移転先と指定された場所は、なんと、八丁堀の海の上だったという。その面積、3万㎡。佃島門徒を中心に海の埋め立てを行い、敷地を整備し、延宝7(1679)年に、浅草御坊は、現在の築地の地に再建された。
大正12(1923)年の関東大震災で東京は壊滅し、寺町・築地御坊にあった子寺のほとんどが、世田谷区や杉並区等、別の地に移転した。しかし圓正寺は、昭和3(1928)年から再建を進め、昭和6(1931)年に落成し、今に至る。圓正寺には、寺院の完成を祝う落慶(らっけい)法要の写真が残されており、当時の賑やかな様子を伝えている。
圓正寺の建築は、横浜の大工の手によるものだという。唐破風を見せる本堂と、銅板葺きの庫裏、墓地が設けられている。吹き抜けの天井は高く、本堂の2階は回廊になっており、独特の空間だ。
本堂の奥、ご本尊が安置されている須弥壇はかなりの高さになっている。外からご本尊を参拝した時に、丁度、お顔が見える高さに設計されているそうだ。
本堂の畳敷き部分の右側を見上げると、「念仏があらゆるところに響くように」という意味の「響流十方」という書が掛けられている。これは本願寺第23代宗主勝如上人の直筆で、昭和初期のものだ。畳敷き部分と、ご本尊がある内陣の境界には、開閉できる金屏風が12枚あり、閉じて内陣側から見ると、月ごとの季節の移ろいを表現する花や木々、鳥などが描かれていて、大変美しい。
寺院の随所には「八重向こう梅」という寺紋が見られる。正面の石造りの門柱には梅が彫られ、また、寺院正面の格子のガラスや庫裏の木戸にも梅の装飾が施されていて、趣深い。第二次世界大戦の難も逃れ、外観・内装共にきれいに保存され、昭和初期の落成当時の姿を伝えている。