開放的な雰囲気を持つ慈光寺の歴史を知るには、初代住職・田原健三氏・一恵(いちえ)氏夫妻にまつわる挿話が欠かせない。
先にこの地に立ったのは一恵氏。明治39(1906)年に山口県で生まれ、大正10(1921)年に東京に移り住む。当時は裁縫の技術を学ぶために上京したが、大正12(1923)年に関東大震災を経験。一面焼け野原になった街の光景と、そこで苦しみ涙を流す人々の姿を目の当たりにし、仏道に帰依することを決意。昭和8(1933)年に京都の中央仏教学院に入学し、仏教を学んだ。
現在の慈光寺の場所にやってきたのは昭和14(1939)年で、本堂もない30坪ほどの平屋に居を構える。門徒が一軒もいなかったため、布教をして本堂を建てるための準備に汗を流した。健三氏と結婚したのもその頃だ。ふたりは全国を巡り歩き、布教をして回った。当時は女性僧侶は珍しく、さらに夫婦でとなると稀有な存在で、「東京の田原夫妻」と言えば少し名の知れた存在だったという。
ふたりの努力が実って本堂の建設に入るが、あと一歩で完成というところで火事に遭い、10年がかりで作ってきた本堂は焼失。幸いにもすぐさま再建工事に移ることができ、昭和42(1967)年、無事に完成した。現住職の澄真氏は「ふたりは色々な経験をして、とても苦労したからこそ、話に深味があって面白かった。そこに人が集まっていたのだと思います」と、語る。
現在、慈光寺で行われている行事や取り組みは、健三氏の思いが脈々と伝わっている。例えば60年前に発団したボーイスカウトは、戦争で荒廃した街で生活する子どもたちを不憫に思い「楽しい思いをして、元気に育ってほしい」と願って始めたという。4月に行われる「花まつり子ども会」も、40年以上続く恒例行事だ。
本堂もなにもないところから自分たちの足で全国を布教して巡り、苦難も乗り越えてきた健三氏と一恵氏だったからこそ、人々の心をつかみ、近隣住民に開けた今の慈光寺の礎を築くことができたのかもしれない。