■自分の目指す道を外の世界に見出した若年期
長崎県五島市にある実家の寺は、末弟が後継となりました。私はどちらかというとアクティブな性格で、人生の節目や転機には、いつも視線が外を向いておりました。一時はブラジルでの開教をも考えていた時期があったほどですから。こうして故郷を遠く離れ、草加市で布教活動をしているのも、その性に合っていたのだと思います。
故郷は周りを海で囲まれた島ということもあり、島を出るまでの幼いころは見ている世界が狭く、全くの世間知らずに育ちました。戦後、田舎の復興が遅れ、境内で作付けをして自給自足するほど貧しい時代も経験しています。その頃の私の仕事といえば、朝一番に作物を収穫すること。そこで獲れた瑞々しく実った野菜や果物は本当に美味しかったです。
その後、龍谷大学へ通う学生となり初めて長崎を離れたとき、周囲の同級生や先輩方から刺激を受け、その外向性も実家の作物のようにぐんぐんと大きく膨らんでいきました。もっとも衝撃的だったことは、知り合いのお寺で境内に畑があるという人が誰もいないことでしたが(笑)。また、私の住んでいた田舎には、本山とは違う習わしがあることをその時に初めて知りました。今まで見たり信じたりしてきたものが必ずしも真の姿ではないこと、またいい意味でそこには自由が存在していることを実感したのもこの時です。そのときに感じたことがより自分自身の人格形成につながったのだと思います。
■靴のままでも気軽に入れるお堂を建立!自分らしい仏道を巧みに表現した唯一無二の寺院
この地へ移り間もないころ、不安の中にいる私に、ある先輩が「開教は白いキャンパスに自分らしい絵を描くことだ」と励ましてくれたことがありました。判子屋の二階で始めたことも、中古物件をリフォームして現在のお堂を建てたことも、一般的には珍しいことです。しかし、その時の自分ができることを精一杯やって、自分なりの寺院を作り上げてきたという意味では満足しています。
寺外活動においても、京都で培われたアクティブな性格が発揮されたと思います。河川に不法投棄された自転車を引き揚げる活動を獨協大学の学生さん達と行なったり、念珠を作るのが好きだったので自作した念珠を販売するお店も出しました。そこで出会い、仲良くなった人たちから、お寺の外で相談を受けることが多くなったんです。おそらく店先や活動中だと身構えず、気楽に話すことができるからでしょう。
近年、「お寺離れ」が顕著ですが、その要因として、どこか気軽にお寺に行けないというイメージがあるからだと思っています。靴を脱いで正座して、神妙な顔をしていなきゃいけない。それでは「気軽に来いと言っても絶対緊張しますよね。だから畳や障子がないお堂を造ったんです。まるで友達の家に遊びに来た感覚で足を運んでもらえる、そんなお寺が1つくらいあってもいいと思います。これが先輩の言ったキャンパスに描いた自分なりの絵であり、私の目指す仏道なんでしょう。