■寺と住職は教えを伝えるための役割を果たしている
よく勘違いをされるのですが、寺は住職やその家族のものではありません。寺の本堂には、ご本尊がありますね。浄土真宗は、阿弥陀如来の仏様がいらっしゃるわけです。つまり、浄土真宗の寺というのは阿弥陀如来の救いを共有する空間であり、住職であり家族はその空間建物を管理したり、教えを正しく伝えたりする役割を果たしている者ということになります。勿論、法事や法要行事を勤めることは大切ですが、その地域のなかに馴染む存在であることも大切です。
阿弥陀如来の仏様とは一言でいえば「慈悲による救いの仏様」です。その慈悲は私たち一人ひとりに向けられ、誰もが阿弥陀如来の慈しみのなかにあります。この仏様は、今私に届き宿って下さる功徳が「南無阿弥陀仏(ナモアミダブツ)」であり、私が「なんまんだぶつ・・・」と、念仏申す声の姿がそのまま仏様の存在です。阿弥陀如来は「生きとし生きるすべての命に届き宿り、必ず救う」と誓われました。救いを共に聴聞する道場が「浄土真宗」寺院であり、様々なご縁を通して人が集まり、ご縁がつながり広がる場所が寺なのです。
■誰に対しても平等に注がれる慈しみが南無阿弥陀仏の救い
浄土真宗の教えであり阿弥陀如来の救いは「生きとし生きる、すべての命を救う。一切衆生(イッサイシュジョウ) 摂取不捨(セッシュフシャ)」とあります。阿弥陀如来は、老若男女や、また持つ宗旨が違っていても、人間を包みつつ、全てのいのちに惜しみない慈悲を注ぐ救いの存在です。都市開教の現場では様々に新しいご縁を結びますが、残念ながらそのご縁がそのまま続くことには厳しい一面もあります。ご縁の人の諸事情はもとより寺院の歴史やもちろん住職の人柄等々も含め、当人には様々に沢山の選択肢があるからです。ご縁は大切にしつつも、去る人を追いかけません。
ご縁のなかで今も深く記憶する一つがあります。医師から残された時間がわずかしか無いことを告げられた方のご家族の希望で呼ばれ、病院で寝たきりの当人とのご縁です。その方は別の宗教の方と聞かされていましたが「どうしても、南無阿弥陀仏の意味を聴きたい」と希望され、縁あって私が呼ばれました。阿弥陀如来・南無阿弥陀仏の仏様の救いをゆっくりとお伝えすると、「ああ、よかった、よかった。ナモアミダブツナモアミダブツ」と、静かに念仏申されました。その方はその数日後に亡くなられ、その後ご家族が浄土真宗に改宗することはありませんでしたが、それでもいいと思います。本人が阿弥陀如来の慈悲にうなずき悦び、念仏申された事実があるからです。阿弥陀如来の救いを共に悦び合える人と出遇った私の悦びもありました。これもまた、ご縁なのです。
■緩くも温かみのある繋がりで長いご縁を育みゆく
残念ながら仏教や寺との縁が少ないことから、寺に足を運ぶことに敷居の高さを感じている方が多いのも事実だと思いますが、浄土真宗は、いい意味で緩いものです。いつも厳しく根詰めて学ばなければならないとか大きく活動しなければいけないということはありません。人との繋がりを大切にしつつ集まって必要なことをするといった、お互いを縛り過ぎない関係性が理想的だと思います。
例えば、当寺では、毎年1月1日に元旦会(がんたんえ)を勤めますが、毎年必ず顔を出してくれる青年がいます。今では妻・子供も一緒です。ある年に思い出話を語ってくれたことがあります。彼の家は母親が早くに亡くなり思春期の難しい時期に家族のコミュニケーションがうまく取れなく色々と問題も起こしたけれど、元旦会が好きで「ここへ来て僕は変わることができました」って言ってくれました。とても嬉しい言葉ですよね。彼のように、毎年1回だけど顔を出して仏様を中心とした時間を皆で過ごすだけでも安心がある。こうした緩くも温かみのあるご縁の輪を、もっと広げていきたいですね。