長念寺の始まりは、大永2(1522)年に法専坊が、この地に草庵を築いたことと伝えられている。当初は真言宗の寺だったこともあり、山号は年号にちなんで「大永山」だったが、文禄元(1592)年に近くにあった三日月湖にちなんで「永池山」と改称された。
やがて徳川家の家臣だった中根平十郎正朝の母、秀月禅尼の厚い帰依を受け、徳川家が本願寺を東西に分立させた際、東本願寺に帰属。慶安2(1649)年の秀月禅尼の1周忌には、平根正朝によって本堂、山門、庫裏などが寄進された。その一方、門徒たちは、東本願寺に属することを不満に思っていた。慶長19(1614)年の大坂冬の陣、翌年、慶長20(1615)年の大阪夏の陣には門徒衆のみの意思で豊臣方に加勢したという伝統もあった。こうした強い門徒衆の思いを受けて元禄14(1701)年には西本願寺に帰参し今に至っている。
現在の本堂は文化・文政年間に再建されたものだが、平成に入りおよそ200年ぶりとなる大改修。この大改修により、豪華絢爛たるかつての姿を取り戻している。見事な彫刻が施された金色に輝く欄間や、内陣の極彩色の柱、格天井の彩色画など、彫刻と絵画のコラボレーションは息をのむ美しさで見る人を圧倒する。
また、室町時代に作られた御本尊の阿弥陀如来像と、平成に制作された本間紀男による脱乾漆造りの親鸞聖人坐像は、当寺が紡いできた長い時間をつなぐ美と信仰の共演ともいえる。幕末期に作られた山門は、江戸深川の後藤弥太郎と地元の大工が彫刻の腕を競い合い完成したもの。そのため、門扉の2つの定紋の彫刻を見比べてみると、両者の差がよくわかるのでおもしろい。
本堂や山門と同様に、庫裏も川崎市の重要歴史記念物に指定されている。生活の場である庫裏は保存されている例が少なく、当時の建築様式を知る貴重な資料となっているからだ。さらに庫裏の書院の天袋の絵は谷文晁によって描かれていたり、当寺に宿泊した山岡鉄舟が筆をふるったりしたもの。江戸後期から幕末にかけての当寺と文人との交流をうかがい知ることができる書画も残されている。
(山門と本堂のお参りは随時自由。庫裏の見学を希望する場合は事前に電話予約が必要)