宗願寺の開基は建保5(1217)年、二十四輩の一人、西念房による。当初は武州足立郡野田(現さいたま市緑区)に創建された。西念房はもと信濃国高井郡井上を本拠地とする
井上氏の出身で、井上氏は八幡太郎(源)義家の子孫であり、源平合戦でも活躍した人物である。
西念坊は、鎌倉前期の承元3(1209)年、越後の国府におられた親鸞聖人に入門。その後、建暦元(1211)年11月に赦免になった親鸞聖人の関東教化に随行し、案内した。
聖人が武蔵国足立郡野田(現さいたま市緑区)に滞在した際、草案を結んで教化を始めたのが宗願寺のはじまりで、「武州惣道場」として武蔵国の教化の中心を担った。山号の
足立山、院号の野田院はそれに由来する。
親鸞聖人ご往生となる正応3(1290年)年には、親鸞聖人の曾孫である覚如上人が関東の聖人の遺跡を廻られ、107歳の西念房が案内役となった。当寺はその際に描かれた開基・西念房と覚如上人、その父・覚恵上人の3人連座の御影の掛け軸を蔵している。西念房は翌年108歳にて往生した。
建武2(1335)年、第3代西祐の時に戦火を避けて野田を出、上州邑楽郡の法福寺に疎開。その後、家永元(1455)年に下総の古河に移り、足立山野田院宗願寺と称して現在に至っている。
3人連座の御影の掛け軸の他、親鸞聖人45歳の像と言い伝わる木造親鸞聖人像(茨城県指定文化財)、木造阿弥陀如来立像(市指定文化財)がある。
また、日本初の公害事件・足尾鉱毒事件を世に問題提起した田中正造が当時の住職と親しく、明治44(1911)年、請願書執筆のために当寺に宿泊した。
前住職の義兄、直木賞作家・和田芳恵の墓もあり、和田はこの寺で執筆活動をしたこともあった。