玄忠寺を建立した大策氏は、新潟県出身だ。東京に移り住んでから、兄とともに多摩市の浄土真宗本願寺派・阿弥陀寺に勤めた。
1983年に、阿弥陀寺の分院というかたちで、まだ浄土真宗の寺院が一ヶ寺もなかった稲城市に玄忠寺を建てた。新たにお寺を建て、地域と密接に関わっていく施設として成り立つためには相当苦労したようだ。さまざまな場所で法話や講座を行うなかでつながった縁や、長い時間をかけて関係を構築した地域との関わりがひとつずつ身を結んだ。
嶺之氏は、初代住職・大策氏のことを「勉学を好み、研究者的な性格だった」と話す。「司教」として熱心に浄土真宗の教義を研鑽していたという。「司教」は、京都の宗派本山に認められなければ就くことができない仏教学に通じた者に与えられる高い学位である。浄土真宗本願寺派・布教使としての活動にも熱心で、特に、築地本願寺で務めた、浄土真宗に関しての専門的なお話をする「御示談」(ごじだん)を楽しみにしていたようだ。また、玄忠寺でも、学習会や法話会などを毎月開催するほど、布教に力を入れる傍ら「東京仏教学院」の本科・研究科、両方の講師にも就任。講師の中で最長期間である25年以上にわたって浄土真宗の教えを伝えた。
このような活動の中で知り合った方々との縁が2代目の嶺之氏にも引き継がれ現在の玄忠寺がある。嶺之氏は、研究熱心で実直な大策氏の考えを大切にしながらも、現代に合った「お寺」のかたちを試行錯誤している。