【住職】西山 庸和(にしやま ようわ)
■巡り合わせに感謝して
私はもともとここの寺の生まれではく、門徒の家の出身です。生まれは愛知、物心つく前に宇都宮に移り住み、会社員の親の元で普通に過ごしてきました。大学は法学の道へ進んだのですが、同級生に本派の僧侶がいたのが、最初の巡り合わせです。大学院に進んでマスターをとった後は、団体職員として働いていたのですが、体を壊したのがきっかけで1年間休職することに。そのときに、恩師や同級生らを尋ね歩いていたなかに、先ほどの同級生である佐竹先生に浄土真宗の入り口のお話をいただいたんです。旅をしながら経本を読んでいるなかで、自分も仏の道に入ってみようかと思うように。偶然にも、自分の寺も浄土真宗本願寺派。そこで当時の住職のところに、総代を通じてお引き合わせをいただいたのが、今の私のスタートです。令和元年の9月のことでした。最初は仕事を辞めるつもりはなかったので、心の置き所として僧籍をいただきたいと門を叩いたのですが、その2ヵ月前に当時の副住職がお亡くなりになっていて、もしその気があるのであればというお声をいただいたんです。
ゼロからのスタートではあったのですが、振り返ってみると気がついていないだけで、私たちの生活のなかには、仏教というものはよくよく入り込んでいます。私も、小さい頃にお経を読んでいたら親戚のおばちゃんに、上手ねって言われたのを喜んでた自分を思い出しました。仏教はとても身近な存在だったんです。しかし、住職になったのは、ご縁としか言いようのない流れでした。自分の意思も小指の先ほどはあるかもしれませんが、それ以上の大きな流れの中にゆったりと流れてきて、本日まで来たところです。多くの先生方が生涯現役でいらっしゃるなかで、血も繋がっておらず、出会って3、4年も経たないうちに、私を住職にとご決断くださったのは本当に大きなことだと思いますし、感謝しかありませんし、巡り合わせであるというふうにしか思えないですね。
■僧侶は仕事ではなく、生きざまである
日々やってること自体は、会社員時代と多分それほど変わりません。1日1日を一生懸命生きようというのもそうですし、何か問題があったら原因を見つけてソリューションする。もしそのスキルが足りなければ、時間を見つけて自分でスキルを身に着ける努力をする。それは、誰もがやってるわけですよね。ただそれを、認めて欲しいとか、誰かを超えたいとか、何かを得たいと思いながらやってるのと、最初にゴールした後でより良くするための努力をするのを考えると、天と地ほどの差があるわけですよね。
僧侶は仕事じゃなくて生きざまだと、よく言われている通りです。やっていることに対する自分の心構え、不安や心の 落ち着き具合は会社員時代の仕事とは全然違います。私は仏教に出会って、そういうふうに思えるようになりました。
もしかしてそういう気づきは、普段の生活の中にもあるかもしれません。しかし、きちんと結び付けてくれる存在が自分の人生の中でいるかどうかは大きいと思います。だからやっぱりご縁なんです。お寺がそのような存在になれたらと思います。
■仏教の教えに触れたり、気づく機会を外に出していきたい
私がお寺に来た頃に、ちょうどコロナ禍になってしまったので、これからなんです。以前からやっていたことは続けていきたいとは思いますが、それだけにとらわれなくてもいいとも思っています。お寺にどう呼ぶかをだけを考えていたら、多分これからの時代は難しくなってくると思っています。仏法の教えに触れる機会や気付く機会を、どうやって外に出していけるかということが大切だと。お寺に来るというのはよっぽどすごいことだと思っています。だから自分が外側にどうやって出ていけるのかを考えているところなんです。地域の活動などには積極的にでていきたいなと思っています。呼ぶのではなく自分が出向く。機会があれば、どこまでも。これからが本番だと思っています。