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なりたさん えこうじ成田山 惠光寺

惠光寺は、浄土真宗の寺院がない地域で布教を行う、いわゆる都市開教の形で1978(昭和53)年に建立された。当初、土地150坪、建物は約24坪だったが、近隣の土地を購入して建て増しを続け、現在では、土地が293坪、建物が145坪となっている。つい最近も隣接の土地をいただいて、広大な駐車場を整備。住職の成田了惠氏は「夏にはここで盆踊りをやりたいんです!」と楽しげに語る。その傍らに寄り添う坊守(=妻)は、「住職が近所の人と仲良しで、隣のおばあちゃんのゴミ出しを手伝うなどしています。」とにっこり。

何もないところから夫婦でお寺を始め、お互いをリスペクトしながら2人で力を合わせてきた様子が、垣間見えた。

歴史

1978(昭和53)年2月19日、現住職の成田了惠氏と坊守の博子氏が、都市開教寺院として惠光寺を建立する。土地は仏教伝道協会の創始者、沼田惠範(えはん)氏が寄贈。

1988(昭和63)年、了惠氏の父、成田惠門氏の往生により、了惠氏は神奈川県戸塚にある善了寺の住職代務となる。「当時は、惠光寺と善了寺の両方で、法話会をはじめ全て同じことをしていたから、本当に大変でした。私が善了寺に行っている間は、坊守が惠光寺でお経をあげたりして。私と妻で、戸塚と、ここ(埼玉県ふじみ野)を入れ替わりで行ったり来たり。そんな生活が9年も続きました。」と住職は語る。

2003(平成15)年5月11日、惠光寺建立25周年記念法要を行う。2008(平成20)年5月11日、惠光寺本堂落慶法要。2015
(平成27)年4月29日、了惠氏が27年間にわたり教誨師を務めた功労により、瑞寶雙光章(ずいほうそうこうしょう)を受賞する。

本堂の宮殿(くうでん)は、建立当時、さいたま市浦和の最勝寺からもらい受けたものだ。

 

住職インタビュー

■お寺を作りたい、という強い思い

大学卒業後、私は、築地本願寺(当時は本願寺築地別院)の職員になりました。14年間勤めました。

築地本願寺には、寺院を統括する役職として、「輪番」というのがあるのですが、ある時、当時の輪番が「個人的なことでも何でもいいから、やりたい!と思うことを言ってこい」と言いました。私と、あともう一人が「新しくお寺を作りたいです」と伝えると、都市開教部を新設してくれました。そして、翌年には、きっちり予算を取ってくれました。

それで土地を探しを始めたところ、マイクロメーターを作っている「ミツトヨ」という会社の社長で仏教伝道協会創始者の沼田惠範さんが、埼玉県ふじみ野の土地を寄贈してくれることになり「ここをお念仏を広める道場にしよう」と決めました。県内で11カ寺目の開教寺院です。今は、35カ寺に増えています。

開教寺院は、本当にゼロから始めるので、何から手をつけたらいいか難しいのですが、築地本願寺がいろいろとバックアップしてくれました。たとえば、「伝道車」と言って、宣伝カーを貸してくれたりしました。私が運転して、坊守がスピーカーで話して、お寺ができたことを宣伝しました。2月に開教して、3月のお彼岸のお中日には25件のお参りがありました。うれしかったですね。

お寺ができたのは、阿弥陀様と親鸞様、沼田惠範さんと築地本願寺があったおかげです。ありがたいことです。

以後、法話会はもちろん、コーラスや子ども会、地域の町会長も30年勤めるなど、地域に根付いた活動をずっと続けてきました。

 

■坊守との出会い

坊守とは、築地本願寺の職員時代、私が24歳、坊守が18歳の時に出会いました。彼女も職員をしていたのです。

私は、戸塚の善了寺の次男です。9歳の頃から家庭環境がごちゃごちゃとしてきて、高校の頃は、最寄りの駅に着いて家に帰ろうとすると、お腹が痛くなるほどでした。

坊守も家庭でいろいろあったようで「私は何のために生まれたのか。私とは何ぞや」と迷っているようなところがありました。それで、話をしていると、表面的なところだけではなく、全てにおいて深く通じ合うものがあったんです。今も2人で「出会えて良かったね」と話しています。

妻は結婚する前に「あなたのことを理解したいから、私も仏教の勉強をする」と言って、東京仏教学院に通い、得度して教師になりました。つまり、住職になる資格を取ったのです。さらに後に、巡讃(じゅんさん)という、西本願寺の門主とともに内陣でお経をお勤めすることができる資格も取りました。坊守が葬儀も法要もできるから、実家である善了寺と、ここ惠光寺を行ったり来たりした時代も乗り切ることができたのです。坊守なしに、私も惠光寺もありません。

 

■元気で行こう南無阿弥陀仏

81歳となり、思えばいろいろと、苦しいことがありました。家に帰りたくなかった中学高校生時代、築地本願寺の広い本堂をたった2人で掃除しなければならなかった、職員1年目の頃。自分が作ったお寺と実家のお寺をかけ持ちで支えて、多忙だった9年間。それでも、どこで倒れても、阿弥陀様と親鸞様がいてくださるのだと、いつも信じていました。阿弥陀様は、どんなにどん底に行っても「お前のことは見捨てない」と言ってくださいます。南無阿弥陀仏と称えれば、条件なしに、そのままで、全ての人を救済してくださるのです。何があっても、私も、妻も、誰もが同じ、お浄土に行けるわけです。南無阿弥陀仏というのは、本当にありがたいお念仏です。

「元気で行こう南無阿弥陀仏 力強く前進しよう南無阿弥陀仏」というのを合言葉にして、お念仏を、さらに広めていきます。

 

 

 

葬儀・法事・法要

葬儀や法要は20人程度が可能。遺族・家族の控室あり。食事の手配もしてくれる。住職は葬儀で「故人は、み仏様になって、いつも一緒にいて救ってくれる存在です」と話している。法要では和讃の歌を入れたり、元気が出る法話をするので、帰り際に「お話を聞いて明るくなれました」と言う人も。

お墓

納骨堂と合同墓がある。いずれも永代供養だ。納骨堂「無量寿堂」の冥加金は135万円から、合同永代納骨堂「念佛廟」の冥加金は25万円から。年間管理費は6,000円。「過去の宗教・宗派は不問だが、以後は、浄土真宗のみ教えをいただいてほしい」という。

「阿弥陀堂」という、お骨の一時預かりもある。詳細は、お寺に相談を。

イベント情報

聖歌隊(恵光寺コーラス)(毎月第1月曜日(13:30~))

仏教讃歌や童謡など、幅広いジャンルを歌っている。高齢者施設やケアホームでコンサートをする活動もしている。

短歌会(毎月1回(13:30~))

仏法のみ教えを基本とした短歌づくりに励んでいる。西本願寺で行われる御正忌(ごしょうき)報恩講(=親鸞聖人の命日をしのんで執り行われる法要で、1月16日の命日までの7日間、行われる)の短歌会で入選した人もいる。

子ども会(毎月第2土曜日(9:00~))

歌やゲームを楽しみ、ご飯をみんなで食べて、にぎやかに楽しく過ごす。お菓子のお土産もある。今はコロナ禍で休止中だが、「以前は二升炊きの電気釜を2つも使って、まぜご飯を作っていましたよ」と坊守は笑う。

住職は「お寺は死んでから来る場所ではありません。楽しくて、ほっとする場所。『しきりのないお寺』を目指しています」と語る。

俳画の会(毎月第2火曜日(13:30~))

俳句にそえる絵を描いて楽しむ集い。かな文字、書道など個人の思いに沿いながら楽しく和気あいあいと行っています。

寺院情報

寺名(ふりがな) 成田山 惠光寺 (なりたさん えこうじ)
住職 成田 了惠(なりた りょうえ)
郵便番号 354-0031
住所 埼玉県富士見市勝瀬1619-5
電話番号 049-264-3793
ホームページ https://ekouji.jp/
交通

【電車】
東武東上線「ふじみ野駅」より徒歩15分

駐車場 40台 小型バス2台
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