■布教所への出発点
私は、広島県の山あいのまち、東広島市にあるにある妙徳寺で生まれ育ちました。父は、私が幼いときに急逝しました。そのため祖父が長く住職として頑張りました。明治生まれの祖父が、私にとって父のような存在でもあります。今は兄が住職を務めております。
この妙徳寺には、いつも、さまざまな方が集まってくださいました。お寺って何だろうと疑問を抱いた時期もありました。そんな頃、お寺の総代も務めてくださったある方に言われたのです。「いのちを終えてから先のほんとの話が聞けるのは親鸞聖人のみ教えだけ。これが聞けるのはお寺しかありません。最後にはみんなこの教えが聞きたい。これしか残らんのです」と。ゆっくり語るぶれのない力強い声が、今も耳に響いています。戦争に行き、シベリア抑留から生還。生きる糧を得るため様々に職をこなし、戦前から高度成長期をへて平成に至るまでの日本社会、人間関係の表裏、人として生き抜くための辛酸を知り尽くしたような人生の大先輩からの言葉を、高校生だった私は、本当の意味で理解できていなかったと思います。しかし、心にズシッと響きました。
死んだらおしまい。無になってしまうと思い込んで、空しさを抱え込んでいるのが現代人かもしれません。その私達にとって、親鸞さまが明らかにされた浄土に生まれるというみ教えは、科学の時代だといってもまったく色あせていません。むしろ私達の生きる道しるべとなって輝きを増していると感じています。
■経験生かして布教所を運営
私は、宗門の学校である京都・龍谷大学を卒業し、本願寺広島別院に13年、築地本願寺に5年勤めさせていただきました。王子布教所の開所記念の華葩(けは)には「共命之鳥(ぐみようしちょう)」があしらわれています。広島・安芸教区教区では、原爆五十回忌法要以来、平和への願いを表すシンボルです。仏説阿弥陀経というお経に出てくる鳥で、ひとつの体に頭が二つあります。かつて、頭がお互いにいがみ合い、片方の頭がもう片方を毒殺したため、殺した側も体がつながっているため一緒に死んだ。この愚かな出来事を繰り返さぬよう、いまお浄土の共命之鳥たちは「他を滅ぼす道は己を滅ぼす、他を活かす道こそ己を活かす道」と、仏様の教えを自らの声として鳴いていると語り継がれています。
ヒロシマは被曝地であると同時に軍都でした。私の父も被爆者ですし、戦争や平和について考えさせられる機会の多い地です。事情は様々あったのでしょうが、戦争は、相手とのつながりに目をそらし、力でねじ伏せるという考えがあることを否定できないでしょう。未来を見据えたとき、過去の歴史に学び、同じ愚行を繰り返さぬよう、都合が悪くともどこまでもつながりあういのちの姿を忘れない不断の努力、情報発信が欠かせないと思います。この布教所ではヒロシマの心も伝えていきたいです。